稲葉地(いなばじ)城

2017年9月11日撮影


◆別名:

 

◆所在:

名古屋市中村区城屋敷町

 

◆交通:

 

◆歴史:

織田信光(織田信秀の弟)が天文年間(1532年~1555年)初期に築いた城と言われているが、南西にある凌雲寺は信光が永生年間(1504年~1521年)に創建した寺と言われており、築城時期に疑問は残る。

信光はその後守山城へと移り、稲葉地城は玄播允が継いだと(※注1)言われている。

 

天文24年(1555年)信光は清洲城主織田信友の重臣である坂井大膳の謀略を逆手に取って清洲城へ入場し、信友を謀殺すると同時に坂井大膳を駿河へと追放して清洲城を乗っ取ったが、清洲城は信長に譲り、自分は那古野城へと入城したが、信光は弘治元年(1556年)に近臣の坂井孫八郎に殺害される。

 

稲葉地城は玄播允の後、与三郎(桶狭間の戦いで討死)、小藤次と城主が続くが、小藤次が本能寺の変で討死すると、後継は途絶え、廃城になったと伝わる。

 

※注1

玄播允を名乗る人物に関しては、尾張國誌によると信光の次男である信昌(永禄12年(1569年)没)となっているが、信昌は天正2年(1574年)に長島合戦で討死したと言われており、没年が一致しない。

 

他に織田氏で玄播允を名乗る人物は織田信光の叔父にあたる織田秀敏(永禄3年(1560年)没?)が存在する。秀敏は信長の大叔父にあたる人物だが、信長より中村三郷を知行されている事から、2代目城主の玄播允は秀敏(没年は一致しない)もしくは秀敏の息子である秀重の可能性もある。他にも織田定政(信長の叔父?不詳)の息子信平を玄播允としている文書も存在しており、どの人物が該当するのかは判っていない。

 

また、3代目城主の与三郎も詳細は判っていない。

4代目の津田小藤次は本能寺の変の際に信長の馬廻衆として記録にのこっているが、系図は不明である。

 

◆現在:

城跡は神明社となっており、鳥居の脇に城跡碑が残る。神社の南西には織田信長が幼少の頃手習いに来たと言われる凌雲寺が有り、手習いで真っ黒になった草紙を枝に掛けて、付近の子供と遊んだと伝わる、草掛の松が境内に残されている他、寺を創建した織田信光(信長の伯父)の宝匡印塔も存在する。


城の南西に建つ凌雲寺の看板


信光の宝篋印塔


織田信長が幼少時代に手習いに通っていた時、松の枝に半紙を掛けて墨を乾かしていた。


信長が半紙を掛けていた松