御器所西(ごきそにし)城

尾陽神社境内に立てられた御器所西城の看板

 

2017年3月6日撮影


◆別名:

 

◆所在:

昭和区御器所2丁目

 

◆交通:

 

◆歴史:

承久3年(1221年)に起った承久の乱の戦功により、佐久間家盛が御器所村と上総夷隅郡を賜った事が、尾張における佐久間氏の始まりである。

 

尾張群書系図部集によると、佐久間氏には美作守を名乗る人物が数名存在するが、尾張誌に文安3年(1446年)御器所城主の佐久間助安が民部丞に任ぜられた記録があり、八所大明神には嘉吉元年(1441年)に佐久間(美作守)宗勝が奉じた棟札が残されている事から、嘉吉年間(1441年~1444年)頃に築かれた城館と考えられる。

 

天文2年(1533年)佐久間盛重は龍興寺を創建。その息子の佐久間盛次は織田信長配下の武将として、弘治3年(1557年)の名塚砦の戦い、永禄11年(1568年)の観音寺城攻めなどに従軍した記録が残されている。

 

また、盛次は柴田勝家の妹(一説には姉)を娶っており、佐久間盛政や柴田勝政、江戸時代には信濃長沼藩主となった佐久間勝之などが産まれている。

盛重が桶狭間の戦いで討死すると、伊勝城主の盛政が跡を継ぐが、叔父の柴田勝家が北陸方面へ派遣されると、これに従って金沢城主などになっている。

 

佐久間氏は山崎川沿いの大半の地域を支配していた事に加え、三河にある西広瀬城の佐久間全広も一族であったと言われており、かなり広大な土地を支配していた。

従兄弟の佐久間信盛が織田信長から追放される際の文書に『信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている』とある事から、盛政が北陸へ進軍した後、この一帯は信盛の支配下にあったと考えられる。

 

◆現在:

尾陽神社一帯が城跡と言われている。

周囲に比べ小高い地になってはいるが、明確な遺構は残されていない。 


尾陽神社北西側から撮影。

 

石垣は後世の物だが、小高い地にあった事は良く判る。


龍興寺境内に立つ佐久間氏の菩提碑


佐久間勝之が熱田神宮へ寄進したお化け灯篭。

 

京都南禅寺、東京上野東照宮の大灯篭と共に、日本三大灯篭として名高い物である。