上野(うえの)城

永弘院境内に建つ上野城の城址碑

 

2017年4月9日撮影


◆別名:

 

◆所在:

千種区上野

 

◆交通:

 

◆歴史:

永正年間(1504年~1520年)の初期に、下方貞経が東西に長い台地の上に城館を築き、周りを二重の堀で囲んでいたと伝わる。

 

貞経は当初岩倉城主である織田敏信に仕えていたが、敏信の死後は織田信秀に仕えており、息子の貞清は小豆坂七本槍の一人として勇名を馳せた他、各地の合戦で一番槍を六度も得た武勇の士である。

 

しかし、本能寺の変によって、貞清の嫡男貞弘は織田信忠と共に二条城で討死、次弟の貞吉も信長の寵童の一人であったため、信長と共に戦死したが、後嗣は尾張徳川家に仕え、熱田奉行にもなっている。

 

◆現在:

上野小学校一帯が城址と言われているが、太平洋戦争の空襲により一帯は焼け野原となり、遺構などは存在しない。

 

北側に建つ永弘院は下方家の菩提寺であったが、同じく空襲によって消失。

戦後、再建された境内の一角に城址碑が残されているのみである。


明治40年に建てられた古い城址碑は、新しい城址碑の後ろに、ひっそりと残されている。