◆別名:

 

◆所在:

 

◆交通:

 

◆歴史:

江戸時代中期に天野信景によって記載された尾張古城誌と言う書物があるが、明治時代(※注1)に、これを補完する(?)尾張古城誌集記附人物と言う書物が記されており、この附人物の中に城主である横地主水の欄に猪子石城が記載されている。

 

これによると『東西六十間南北五十間二重濠』となっているが、これは沓掛城や鳴海城よりも広い城郭である。ただし、江戸中期に信景が著した尾張古城誌には猪子石城の記載はなく、同規模やそれ以下の城のほとんどが記されている古城誌に猪子石城の記載が無い上、高地にある城に濠(水堀)が作られた事にも疑問は残る。

 

昭和64年に津本陽が著した『下天は夢か』の中で、桶狭間合戦前夜『後方の龍泉寺城と、中継地点として岩作城、猪子石城に蜂須賀党らが少人数で詰めていた』と記載された事もあり、城として認識された猪子石城ではあるが、実際は豪族の横地氏の城館であり、

 

◆現在:

 

 

※注1

附人物の巻末に明治元年までの家系図が掲載されているため、元年以降の著作とした。