名塚(なつか)砦

白山神社境内に立つ名塚砦の看板

 

2017年3月6日撮影


◆別名:

名塚城

 

◆所在:

名古屋市西区名塚町

 

◆交通:

 

◆歴史:

弘治2年(1556年)に織田信長によって築かれた砦である。

 

当時の尾張は守護の斯波氏の力が衰え、清州城の織田信友が実権を掌握。その中の奉行の一人であった織田信秀が天文20年(1551年)に死去すると、信友は家督を織田信長の弟である信勝(信行)に継がせようと図り、天文23年(1554年)に信長暗殺を企てるが失敗に終わり、信長が清州城へと入城し、尾張の実権を握る事に成功した。

 

弘治2年(1556年)4月、長良川の戦いで、義父の斎藤道三が義龍との戦いで敗死すると、信長の器量に疑問を抱いた柴田勝家、林道勝らは末森城にいた信勝を擁立しようと計画。信勝もこれに呼応し、大秋城の大秋十郎左衛門などを使い、信長側として荒子城などで勢力を保っていた前田氏との連絡を分断した上で、信長の倉入り地である篠木(現在の春日井市南西部)を略奪するなどした。

 

これに対し、清州城にいた信長は、庄内川を渡った対岸に名塚砦を築き、御器所西城の佐久間盛重の軍勢を砦に入れたため、名塚砦の南にある稲生の地で両軍の戦闘が開始された。

この時の信長軍は700程度、対する信勝軍は1700程度と言われている。

 

猛将柴田勝家を擁する信勝軍は戦いを有利に進め、信長自身が槍を持って奮戦する事態となったが、森可成などの活躍で形勢は逆転し、信勝側の将であった鎌田助丞など450名を討ち取ったと言われている。

合戦に敗れた信勝は那古野城末森城に籠城して抵抗を示すが、生母の土田御前のとりなしで、一旦は信長と和解したものの、その後、再度謀反に及んだ結果、信長に成敗されている。 

 

◆現在:

白山神社の境内に名塚砦跡の看板が立てられている他、100m程南の庄内水道沿いには、稲生原古戦場跡の看板と、戦没者を祀る庚申塚が残されている。


稲生原古戦場跡の看板。

戦没者を祀る庚申塚の脇に立てられている。


名塚砦から南に100m程下った、庄内水道脇に現在も残されている庚申塚とそれを示す石碑。

石碑には昭和5年に立てられたとの記載がある。