比良(ひら)城

2017年9月25日撮影


◆別名:

 

◆所在:

名古屋市西区比良3丁目501

 

◆交通:

 

◆歴史:

天文年間(1532年~1555年)初期に井関城を本拠としていた佐々成宗(盛政・佐々成政の父)が築いて移り住んだ城と言われているが、城から1.5km程北東にある高田寺の梵鐘に、比良佐々下野守藤原貞則(注1)の銘が刻まれており、大永5年(1525年)となっている事から考えると、大永年間以前から佐々氏がこの地を支配していた事が伺える。

 

佐々成宗は井関城を長男の政次に譲り、比良城へ移り住んだが、永禄3年(1560年)桶狭間の合戦で討死。次兄の孫助も弘治2年(1556年)に起きた稲生の戦いで討死を遂げていたため、成政が佐々氏を継ぐ事となった。

 

成政は信長の命により北陸方面へ配され、越前小丸城主となったが、山田村誌に「成政天正三年八月に越中に報ぜられるや、三男雄助 を比良に留む。雄助故ありて母性を名乗り此の地に住す。今比良に於いて早川姓を名乗る者は皆其の裔である」との記載が残されており、後世まで比良城は廃城とならず、早川氏の支配の元で残されていたと思われる。

ただし、佐々氏の系図は異説が多く、雄助の名前自体が確認できない系図も存在するため、確証はない。

 

注1
佐々貞則は成政の父である成宗であると言われているが、井関城が築かれた年が文明11年(1479年)と伝わっており、成政の生誕である天文5年(1536年)とは47年も離れており、かなりの高齢になってしまう。

 

成政の生誕は永正13年(1516年)説もあり、成宗が16歳で井関城を築城したとすれば、43歳で成政が産まれた事になるものの、これでも当時とすれば高齢に入る。

 

貞の字は、織田信長の祖父にあたる信貞(信定)の偏諱を受けた可能性が高く、年代的に考えると、成政の祖父(もしくは曽祖父)が佐々貞則であると考えた方が良いのかもしれない。

 

◆現在:

光通寺の境内に佐々成政城址の碑が残るのみである。